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日曜日の夜になると、気持ちが沈んでくる。
明日からまた会社だ。朝早く起きて、通勤電車に乗って、決められた時間まで働かなければならない。
せっかくの休日だったのに、日が暮れるころには翌日の仕事が頭から離れなくなる。
Xを眺めていると、そんな気持ちを吐き出した投稿に出会うことがある。
「明日から会社に行きたくない」
何も珍しい言葉ではない。月曜日を憂鬱に感じる人は昔からいるし、日曜日の夕方から気持ちが落ち込む現象は「サザエさん症候群」という俗称でも知られている。
こうした投稿には共感する人が集まり、同じ気持ちを抱えた人たちが言葉を交わす。
しかし、少し不思議なことがある。
会社に行きたくないと感じているのに、なぜ多くの人は翌朝になると会社へ向かうのだろうか。
もちろん、生活のためという答えがある。
給料がなければ家賃も食費も支払えない。家族を養っている人なら、なおさら簡単に仕事を休んだり辞めたりするわけにはいかない。
だが、理由はそれだけではない。
私たちは社会の中で、法律に支えられたさまざまな約束を交わして生きている。
会社で働くことも、その一つである。
会社に入るということは、単に毎月給料を受け取る場所を見つけることではない。
そこには「労働契約」という法律上の関係が生まれている。
そして、この契約こそが、日曜日の夜の憂鬱と月曜日の朝の出勤を結びつけているのである。
そもそも、会社というものは、人間が社会活動を営むために作り上げた仕組みである。
日本では会社法などの法律によって会社という法人の制度が定められ、その活動は多くの法律によって規律されている。
会社には経営者がいて、従業員がいて、それぞれの役割がある。
商品を作り、サービスを提供し、利益を得て、事業を続けていく。
その活動を支えるものの一つが、人間の労働だ。
しかし、会社は誰かを見つけて、勝手に働かせることができるわけではない。
働く人と雇う側の間には、原則として合意が必要になる。
労働契約法第6条では、労働者が使用者のもとで働き、使用者がその対価として賃金を支払うことについて、双方が合意することで労働契約が成立すると定めている。
簡単にいえば、「私はあなたの会社で働きます」「会社はその労働に対して給料を支払います」という約束である。
この約束を結んだとき、人は労働者としての権利を得ると同時に、契約に基づく義務も負う。
働いた分の賃金を受け取る権利がある一方、契約で定められた労働を提供する義務も生まれる。
ここで考えたいことがある。
入社したとき、その人は本当に自分の意思で会社を選んだのだろうか。
求人広告を見て応募し、面接を受け、採用通知を受け取る。
提示された条件に納得して入社するのであれば、法律上は双方の合意によって労働契約が成立する。
しかし、その人が毎日同じ気持ちで働けるとは限らない。
入社式の日には希望に満ちていたかもしれない。
新しい仕事を覚えることが楽しかったかもしれない。
初めて給料を受け取ったときには、自分の選択を正しかったと思ったかもしれない。
ところが、半年後、一年後、あるいは十年後。
日曜日の夜になるたび、会社に行きたくないと思うようになっているかもしれない。
人間の感情は変化する。
好きだった仕事が嫌いになることもあるし、嫌いだった仕事を好きになることもある。
それでも、契約は気持ちの変化によって自動的に消えるものではない。
昨日は働く気持ちがあった。
今日は働きたくない。
明日になれば、また気持ちが変わるかもしれない。
しかし、労働契約はその一日一日の感情とは別に続いている。
ここに、社会の約束と人間の感情との間にある、避けがたいずれが見えてくる。
では、そもそもなぜ月曜日になると会社へ行かなければならないのだろう。
法律に「会社員は月曜日に出勤しなければならない」と書かれているわけではない。
月曜日が休みの会社もあれば、土曜日や日曜日に働く人もいる。在宅勤務や交代勤務など、働き方もさまざまだ。
労働者がいつ、どこで、どのように働くのかは、労働契約や適用される就業規則などによって定められる。
労働契約法第7条は、合理的な労働条件を定めた就業規則が労働者に周知されている場合に、その就業規則が契約内容となる仕組みを定めている。ただし、個別の合意や法令との関係によって例外もある。
例えば、月曜日から金曜日まで、午前9時から午後6時まで勤務するという条件で働いている人がいるとする。
その人にとって、月曜日は単に一週間の始まりというだけではない。
契約上、労働を提供することが予定されている日でもある。
会社へ行きたくないという気持ちだけで無断欠勤すれば、契約上の義務を果たしていないと判断される可能性がある。
勤務していない時間について賃金が支払われなかったり、事情によっては就業規則に基づく懲戒の問題が生じたりすることもある。
もちろん、休暇を取得した場合や、病気などで働けない正当な事情がある場合まで、すべて同じように扱われるわけではない。
懲戒についても、労働契約法第15条により、客観的に合理的な理由や社会通念上の相当性が求められる。
ただ、ここで明らかなことがある。
「行きたくない」という感情そのものは自由でも、「行かない」という行動には、契約上の問題が伴う場合があるということだ。
人間には感情の自由がある。
しかし、社会生活には約束を守る責任がある。
この二つは、いつも仲良く共存しているわけではない。
それでは、法律は労働者を会社に縛りつけるために存在しているのだろうか。
そう考えると、法律の別の側面を見落としてしまう。
法律は、働く人に義務を生じさせるだけではない。
会社が労働者に対して何をしてよいのか、何をしてはいけないのかも定めている。
例えば、労働基準法第32条では、法定労働時間を原則として1日8時間、週40時間としている。
所定の条件のもとでは例外も認められるが、会社が無制限に働かせてよいということではない。
法定労働時間を超える時間外労働には、原則として労働基準法第36条に基づく労使協定、いわゆる36協定などが必要になる。
休憩や休日についても法律上の決まりがある。
そして、労働基準法第39条には年次有給休暇の制度がある。
一定の条件を満たした労働者は、賃金を受け取りながら休暇を取得することができる。
年次有給休暇は原則として労働者が指定した時季に取得できるものであり、使用者が自由に拒否できるものではない。
事業の正常な運営を妨げる場合には時季を変更できることがあるものの、休暇を取得する権利そのものをなくせるわけではない。
つまり、法律は「働く約束をしたのだから働きなさい」とする一方で、「働く約束をしたからといって、いくらでも働かせてよいわけではない」とも定めているのである。
さらに、労働契約法第5条には、使用者が労働者の生命や身体などの安全を確保できるよう、必要な配慮をする義務が定められている。
心身の健康を損なうほど無理をして働くことまで、契約だからといって当然に求められるわけではない。
また、労働基準法第5条は、暴行や脅迫、監禁などによって自由を不当に拘束し、本人の意思に反して働かせることを禁じている。
出勤する義務があることと、会社が人間を強制的に支配してよいことは、まったく別の話なのである。
ここまで考えると、会社と労働者の関係は意外に複雑だ。
会社には事業を継続する必要がある。
従業員が誰も来なければ、仕事は成り立たない。
顧客との約束も守れなくなる。
一方で、労働者には生活がある。
体調の悪い日もあるし、家族の事情もある。仕事より優先しなければならないことが生まれる日もある。
会社は安定した労働力を必要とし、労働者は安定した収入と生活を必要とする。
だからこそ、双方の権利と義務を定める契約がある。
しかし、人間は機械ではない。
毎朝、同じ時刻に電源を入れれば、必ず同じ気持ちで働き始められるわけではない。
元気な月曜日もあれば、重い足取りの月曜日もある。
誰かに腹を立てたまま出勤することもあれば、週末の楽しかった出来事を思い出しながら仕事をすることもある。
会社は労働の提供を契約によって求めることができても、従業員に毎日仕事を好きでいることまで約束させることはできない。
これは、実に興味深いことではないだろうか。
私たちは自分の意思で約束をする。
ところが、その約束をした瞬間から、将来の自分の行動には一定の制約が生まれる。
自由な意思で契約を結ぶことと、契約を結んだ後も好きなように行動できることは、同じではない。
こうしたことは、労働契約に限らない。
賃貸住宅を借りれば家賃を支払う約束が生まれる。
お金を借りれば返済の義務が生まれる。
何かのサービスを契約すれば、その契約条件に従うことになる。
どれも、自分の意思によって始まることがある。
そして、始めたときの気持ちが変わっても、約束は残る。
社会は、このような約束が守られることを前提として動いている。
もし人間が、その日の気分だけですべての約束を取り消せるとしたら、社会はどうなるだろう。
会社は予定していた仕事を進められなくなる。
貸したお金が返ってくる保証もなくなる。
商品の代金を支払っても、相手が気分を変えたという理由で商品を渡さなくなるかもしれない。
契約という仕組みは、変わりやすい人間の気持ちに左右されず、将来の行動をある程度予測できるようにするためのものでもある。
だから契約には意味がある。
ただし、その仕組みを支えているのは、感情を持った人間なのだ。
そして、労働契約にはもう一つ大切な特徴がある。
それは、契約を終わらせる道も法律によって用意されているということだ。
期間の定めのない労働契約では、民法第627条第1項により、労働者は原則として退職を申し入れてから2週間が経過すれば、会社の承諾がなくても契約を終了できる。
実際には就業規則や引き継ぎなども確認し、トラブルを避けながら手続きを進めることが望ましい。
また、契約期間が定められている場合には別のルールがあり、契約期間途中の退職には原則としてやむを得ない事由などが問題になる。ただし、法律上の例外や労使の合意によって退職できる場合もある。
重要なのは、会社に入ったからといって、一生そこに所属しなければならないわけではないことだ。
人間には働く会社を選び直す余地がある。
法律もまた、そのための仕組みを持っている。
それでも、現実は簡単ではない。
退職できる権利があるからといって、翌日からの生活が保障されるわけではない。
仕事を辞めれば収入が途絶えるかもしれない。
再就職できる保証もない。
住宅ローンや家賃の支払いがあり、家族の生活があり、将来への不安がある。
法律が認める自由と、生活の中で実際に選べる自由との間には、距離がある。
この距離こそ、月曜日の憂鬱を考えるうえで重要なのかもしれない。
「会社に行きたくないなら辞めればいい」
そう言うことは簡単だ。
しかし、辞めるという選択肢が法律上存在していても、誰もがその選択を現実に取れるとは限らない。
反対に、「嫌でも給料をもらっているのだから黙って働くべきだ」と片づけることも、十分な答えではないだろう。
働く義務を守ることと、つらい気持ちを抱えていることは両立する。
責任を果たしている人が、弱音を吐いてはいけないという法律はない。
もっとも、会社に行きたくないという気持ちの背景に、過重労働やハラスメント、健康上の問題などがある場合には、単なる気分の問題として片づけるべきではない。
休暇を取ること、労働条件を相談すること、必要に応じて専門機関に相談することも、働く人に用意された選択肢である。
そう考えると、日曜日の夜にXへ書き込まれた「明日から会社に行きたくない」という一言も、少し違って見えてくる。
それは、必ずしも会社への反抗ではない。
法律を無視したいという宣言でもない。
翌朝には普段どおり出勤する人が、その前夜だけ、心の中にある気持ちを言葉にしているのかもしれない。
仕事を続けることと、仕事を続けたいと思うことは違う。
会社へ行くことと、会社へ行きたいと思うことも違う。
人間は自分の意思で契約を結び、その契約によって社会の中に自分の居場所を作る。
しかし、その居場所がいつも心地よいとは限らない。
法律は約束を守るための仕組みを定める。
そして、働く人を守るための仕組みも定める。
けれども、日曜日の夜に生まれる憂鬱そのものを、法律が消してくれるわけではない。
明日も仕事がある。
行きたくないと思う。
それでも、契約は続いている。
朝になれば目覚まし時計が鳴り、支度を始め、会社へ向かう人がいる。
その姿を見て、ただ社会のルールに従っているだけだと考えることもできるだろう。
けれども、そこには生活を守ろうとする意思も、責任を果たそうとする気持ちも、簡単には捨てられない事情もある。
私たちは自由な意思を持つ人間でありながら、自分で交わした約束によって行動を制約される社会に生きている。
そして、社会はその約束が守られることによって成り立っている。
日曜日の夜に「会社へ行きたくない」とつぶやく人も、月曜日の朝には、その仕組みの中へ戻っていくのかもしれない。
だからこそ、最後に一つだけ考えてみたい。
私たちは会社へ行きたいから出勤しているのだろうか。
それとも、会社へ行くと約束したから出勤しているのだろうか。
おそらく、その答えは人によって違う。
そして同じ人であっても、月曜日ごとに変わるのかもしれない。
法律はその約束を支えている。
しかし、その約束とともに生きていくのは、あくまでも感情を持った一人ひとりの人間なのである。
参考資料
※本記事は日本の労働関係法令をもとにした一般的な解説・考察です。実際の労働契約上の権利義務は、契約内容や個別事情によって異なります。
会社で働くということは、どのような法律上の約束を交わすことなのでしょうか。労働契約の成立から、賃金、休暇、退職まで。私たちの日常と労働法との関係を、もう少し詳しく知りたい方に向けた入門書です。

